【那覇】対馬丸記念館に行ってきました

ヨネ

みなさんこんにちは、ヨネです。

8月22日は、戦時中に那覇から長崎に向け、疎開船として使用された船「対馬丸」がアメリカ軍の潜水艦「ボーフィン」の魚雷攻撃に遭い、沈没した日ということで、那覇市は若狭にある対馬丸記念館に行ってきました。

私は沖縄出身ではなく、不勉強で対馬丸事件のことを知りませんでした。

記念館も初めて訪問しました。色々と学びがありましたので、書いてみたいと思います。

記念館の職員の方に、写真撮影は「遺影のみご遠慮ください(遠くからなら可)」と言われ、許可を得ております。遺影に関しては遠くからであっても撮影することはできないと思いましたので今回は撮影しておりません。

基本情報

名称対馬丸記念館(つしままるきねんかん)
営業時間ホームページ「利用案内(料金)」をご覧ください
定休日同上
料金同上
住所〒900-0031  沖縄県那覇市若狭1-25-37
駐車場あり (詳しくはホームページ「交通アクセス」をご覧ください
トイレ有り
HPhttp://tsushimamaru.or.jp/

「対馬丸事件」の概要

「対馬丸記念館」の建物の外壁に事件について分かりやすい記述がありましたのでご紹介させていただきます。

事件の概要

昭和19(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子供やお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要綱を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進みませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1,2年生や女子、高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州へ向かいました。

 疎開船対馬丸はそのなかの一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎へ向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲となりました。

入館する

2階が入口になっていて、出口は1階になっています。

入館料を支払ってチケットを購入し、案内資料がもらえます。

入口には「いま『対馬丸』を語ること」と題した文章が掲げられていました。

写真はボヤけてしまいました。

私たちは考えました。いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?

戦争のこと?それとも平和?

本当に語って欲しいこと、それはいいまそこにある それぞれの「夢」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました

でも、生きていればこその「夢」

犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」

彼らが持っていたであろう未来への「夢」

その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身をおいたら、感じてみて下さい

そして、考えてみて下さい

この館には犠牲者の数と比較して遺品など、「物」があまりありません

どうしてでしょう?

あまりにも長い時間がたったから?

思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では多くが焼かれ破壊しつくされました

形あるものは失われました

しかし、人々の「想い」は決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です

戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます

悲しみの大きさを、「希望」kにかえる努力をしないと

憎しみが報復の連鎖をよびます

しかし、報復の連鎖で悲しみは癒されるでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が子どもたちから新たな夢と希望を奪っています

この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること

これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された

私たちへの「課題」ではないでしょうか

二〇〇四年八月二十二日 財団法人 対馬丸記念会

2014年に天皇・皇后両陛下が御訪問

館内の入り口に上皇・上皇后(当時天皇・皇后)両陛下のお写真と、お詠みになったと思われる歌が飾られていました。

(歌の内容ご存じの方がいらっしゃったら教えて頂けますと嬉しいです)

ニュースにもなっていました。

「対馬丸」模型

船のことはよく分かりませんが、日本郵船の貨物船(T型)が軍に徴傭されたもののようです。

2階の展示内容

2階には対馬丸の出航から沈没、その直後の海に投げ出された方々の中で、救出された一部の方たちがどのような経緯を辿ったのか等の展示がなされています。

海に投げ出された人たちがイカダに掴まっている様子

1階の展示内容

1階は船倉の様子や証言者の映像、また、学童疎開の子どもたちの被害が大きかったことから、当時の子どもたちの様子が分かるような学校の様子や勉強の内容、また、疎開先での生活の様子や、当時の生活用品などが展示されていました。

また、遺影が展示され、その後に起こった那覇での空襲などについても展示がなされていました。

子どもたちの中には「ヤマトに行けば雪や桜が見れる」と楽しむ子もいたそうです。
布団も無いなかで、船倉は寝れないほど蒸し暑かったそうです。

慰霊の碑「小桜の塔」

対馬丸記念館から3分ほど歩いたところに対馬丸沈没で亡くなられた方々への慰霊の碑が立てられています。

記念館をご訪問された方は、ぜひこちらにも慰霊のために足を運んでいただきたいと思います。

印象に残った点①「戦時中であっても法令や通達のもとに国民統制が行われていたこと」

自分の恥を次々に晒しているようなものですが、いわゆる大東亜戦争(太平洋戦争)当時の資料などまじまじと見たことがほとんどありませんでした。

展示物のひとつに「学童集団疎開実施要項」というものがあります。

「戦時中」と聞くと、国家の鶴の一声で国民は右に左に振り回されていたのではないかというイメージがありましたが、この資料をよく読むと、若干、感情的・煽情的な部分があるものの、あくまで文面上では基本的に、民主的かつ反強制的に疎開を促す内容になっていると思います。

(県)内政部長から市長や学校長宛ての通牒とのことなので、行政通達文書ではないかと思います。

教親第五九五号 昭和十九年七月十九日 内政部長

両支庁長両市長 三郡国民学校長 殿

学童集団疎開準備に関する件

 時局の現段階に対処し、一億国民総力を挙げて敵反攻に備うる国土防衛態勢確立急務なるとき、人口疎開の一翼として県下学童を安全地区に集団疎開し、戦時といえども少国民の教育運営に遺憾なきを期し、あわせて県内食料事情の調節を図らんがため、表記疎開につき計画致したきにつき、左記事項参照の上速急にしかるべき措置相成りたくこの段通牒す

沖縄県学童集団疎開準備要綱

一、疎開対象

 国民学校初等科第三学年より第六学年までの男児希望者を原則とし、初等科第一、二学年の者といえども心身の発育十分にして付き添いを要せずと認めらるる者はこれを許可す

二、疎開に伴う指導者の派遣

1 児童四十名につき教員一名の割にて当該校長の推薦により派遣す

2 派遣教員は優秀なる男子を原則とするも学校長の裁量により適宜女教師をも加うることも得

3 学校長は残留する児童の教育にも留意し派遣すべき教員を選定すること

4 派遣教員は必要に応じ家族と同伴することを得

5 児童二十名に付き一人の割合にて世話人を置く(女子中等学校生徒高等科女児)

三、疎開に要する経費

 学童の食費輸送費その他疎開に必要なる経費は当県において負担する予定なるも職員家族の費用は一切自費とす

 携帯用品は最小限度に止るも可及的夜具蚊帳の類はこれを携行すること、その他詳細は後にこれを示す

四、疎開の時期は不定なるにつき、あらかじめ出発の用意を整えて待機し命令を待つこと

・・・中略・・・

六、疎開の勧奨

 学校側において希望者の募集を行うには学童父兄の十分なる理解のもとにこれを行い、いやしくも敗戦的なる思想傾向に陥らしむることなきよう特に留意し、疎開とは単なる避難もしくは退散にあらず、戦争完遂のための県内防衛態勢の確立強化を図らんがための措置にほかならず、国家の人口疎開の方策に基づくものなることを強調し、残留する父兄婦女子に対してもいささかの不安を与えざるよう思想態勢の同様を極力防止すること

・・・中略・・・

印象に残った点② 「防空壕にはどれだけの空気が入るのでしょう?」

当時の児童たちが使っていた算数の教科書の展示もありました。

国民の関心を戦争に向けていくためか、学校生活や教科書、ゲームなどにも戦争の要素が反映されていったそうです。

(7)縦二米、横三米、高サ二米の防空壕ガアリマス。コノ壕ニハ空氣ガ何立方米ハイツテヰルデセウ。

ヨネ

現代から見ると少し物騒な感じがしますが、当時は普通だったのでしょうか。

ただ、「数学(算数)的思考を身近なものとして捉える」という点では、現在にも通じる良い教育方法だったのではないかと思います。

「戦争が身近」というのはやはり違和感がありますが・・・。

さいごに

いかがでしたでしょうか。

先日、荒崎海岸に行き、「ひめゆり学徒散華の跡」を見てきました。

当時、私よりうんと若い子どもたちが数百・数千、あるいは数万という単位で命を落としていったという現実は、壮絶なモノを感じます。

私を含め一般の人たちが、いますぐ何かの行動に移すことはできないかもしれませんが、せめて当時の色々なことを知るように努力をすることが、犠牲になった方々へのせめてもの恩返しになるのではないかと感じました。

正直、書きたいことの半分ぐらいしか書けていないので、また時間があれば書き足していきたいと思います。

ありがとうございました。

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